<マインドコントロールは拉致監禁を正当化する>

<マインドコントロールは拉致監禁を正当化する>
よくよく考えてみると、これは明らかな犯罪なのですが、常習的に拉致監禁を行ってきた牧師にとっては「相手はマインドコントロールされた反社の人間だから、何をしたっていいんだ」と自分たちを納得させているのです。


監禁ではなく、保護説得だというのは、一面では牧師や保護者にとっては良心の呵責を起こさせないストッパーと言ってもいいものです。
自分たちのやっていることを正当化して自分たちを慰めている言葉です。


さらに
恐ろしいことは「カルト」という言葉でレッテルを貼ってしまえば、何をしても許されると思っているのです。


そういう心理は、ネットの書き込みを見れば散見できます。
「あいつらはマインドコントロールされているから、人間ではないんだ。人間扱いする値打ちもない。何をしたっていいのだ。あいつらに人権など認めなくていい。」と。
無茶苦茶な理屈を語る人だっています。


実は、これが「マインドコントロール」という言葉が用いられる理由です。


「マインドコントロールされている」という言葉を使うことによって相手に対して「何をしても許される」環境を作り出す目的があるのです。


「マインドコントロール」という言葉によって、脱会屋の活動を正当化する土壌が生まれるのです。
「マインドコントロール」状態を一種の病理的異常な状態と見なすことで、差別やヘイト行為をなんら良心の呵責もなく行えるようにしてしまうのです。


この「マインドコントロール」理論は海外では否定されていますが、一部の弁護士や反統一教会活動をするグループはいまだにこの言葉を利用しています。


繰り返しますが、この言葉は差別を正当化し人間性を失わせる、とても恐ろしい言葉です。


拉致監禁被害がこれ程長く続いた背景には、こうした「宗教への差別と偏見」があります。


いわゆる人権活動家は昔「レイシストは去れ」と差別を反対する発言をしていましたが、今は、一番差別をあおっています。
「相手がカルトであるなら、いくらでもやっつければいい」と多くの人がなんの疑いもなく述べています。
ちょうど今のマスコミがやっているようなものです。


レッテルを貼り、徹底攻撃の繰り返しです。
間違っていてもおかまいなしです。
やがて大衆は叩いている理由さえ忘れて、麻薬を飲まされたように「リンチ劇」に夢中になります。
本当の意味で「マインドコントロール」されているのは、テレビの前にいる国民たちです。


そして、このような差別的な風潮は、既成の宗教ほど新興宗教に対しては顕著です。
清水牧師の発言です。
「統一協会に入っているものは一生座敷牢に入れてもいいんだ。」「統一協会に入っている者は、侮蔑の意識を持たれても当たり前なんだ。」


拉致監禁で幸せが得られたかどうか、すでに脱会した元信者さんの手記を読んで考えてみるといい。